【薩摩藩英国留学生記念館】①幕末サムライの命がけイギリス留学!

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イギリスへ留学、ワーキングホリデーをする日本人たちは、後を立ちません。

かくいう私も、1年間ロンドンで語学留学をした経験があります。

英国留学生たちの先駆者たちは、命がけの【密航】でイギリスへ渡りました。この19名の薩摩藩の侍たちの話を知っていますか?

わたしの田舎である鹿児島県。
その鹿児島の漁村、いちき串木野市羽島(はしま)。

小さな漁港から、幕末の薩摩藩士のサムライ達がイギリスへ向けて留学の旅に出ました。

今ではその場所に【薩摩藩 英国留学生 記念館】が建っています。

今回の日本一時帰国で初めて訪れたその記念館で、思わずこころが熱くなりました。

幕末の薩摩のサムライたちの命がけの英国留学。

今回は、わたしが「記念館へ行く前に下調べしておけばよかった!」と感じた当時の歴史と、留学生たちの紹介、なぜ命がけの留学といわれたのか?をまとめます。

薩摩藩英国留学が実現した歴史的背景

まず、この留学は2つのポイントが揃って実現しています。

① 幕末の薩摩藩とイギリスの関係
②  五代 友厚(ごだい ともあつ)という人物

さっそく2つのポイントに絞ってみていきましょう!

①幕末ー薩摩藩とイギリスの関係

【生麦事件(なまむぎじけん)】

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By Hayakawa Shozan (早川松山) – 不明, パブリック・ドメイン, Link

イギリスと薩摩を語る上で、この事件ははずせません。

江戸時代末期1862年9月、当時薩摩藩の国父だった島津久光(しまず ひさみつ)の大名行列が武蔵野国生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差しかかったとき国をゆるがす大事件がおきました。

その名も、【生麦事件(なまむぎじけん)】!

大名行列に、乗馬で日本見物をしていたイギリス商人ら一行4人が通りかかります。

薩摩藩士たちが身振り手振りで下馬し道を譲るように説明するも、イギリス人たちは意味を理解できずどんどん行列の中を逆行して進みます。
久光の駕籠(かご)のすぐ近くまで来たところで、数人の薩摩藩士達が無礼討ちとして英国人達を斬りつけ、1人が死亡、2名が重体という事態が置きました。

この事件をうけ、イギリス側は、幕府に対し謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対しては犯人の処刑と2万5000ポンドの賠償金を要求。

しかし、薩摩藩は要求を拒否(!)します。

【薩英戦争(さつえいせんそう)】勃発

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パブリック・ドメイン, Link

生麦事件から約1年後の1863年8月11日、イギリスは幕府から賠償金10万ポンドを受け取り、次に薩摩藩と直接交渉するため、軍艦7隻を鹿児島湾に入港させます。

イギリス側は、改めて犯人の処刑と賠償金を要求するも、薩摩藩側はなかなか回答を出しません。

8月15日、とうとうイギリス側は、薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段にでます。(この時に後の英国留学生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となる。)

これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は天保山砲台から砲撃を開始。
イギリス艦隊との間で激しい砲撃戦を展開。

薩摩藩側は鹿児島城下は焼け、多くの砲台が崩壊したが、死者は出ませんでした。

イギリス側は、軍艦1隻が大破、他2隻も被害をうけ、死傷者は63人となり、8月17日、イギリス艦隊は薩摩を撤退し横浜へ戻りました。

その後、横浜のイギリス公使館で講和談判がおこなわれ、薩摩藩が2万5,000ポンドを幕府から借金し支払うことで和解が成立します。
(でも結局 この借りたお金を幕府に返さなかった薩摩。うわー!)

しかもこの講和交渉中、大胆にも薩摩側はイギリス側に軍艦購入を依頼します。イギリスも薩摩を高く評価するようになり、ここに、イギリス対一藩のひとつにすぎない薩摩の関係が深まっていきました。

当時、世界最強と謳われたイギリス海軍が事実上敗退した結果となったのは西洋社会では驚くべきことであり、この一連の事件は、日本人の勇猛さを高く評価し、日本を侮るなかれ、と評されました。


②五代 友厚(ごだい ともあつ)の上申書

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By user:MChew投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

幕末から明治にかけ活躍した元薩摩藩士の実業家。(1835~1885年)

NHK朝ドラの「あさが来た」でディーン・フジオカが五代役に扮し人気になりました。

今でも、【薩摩藩英国留学生記念館】には、「あさが来た」のドラマの五代ファンが訪れると言っていました。

五代は、子供のころから秀才で名高く、長崎に海軍伝習所が開設されると伝習生となり、勝海舟(かつ かいしゅう)らと西洋の航海術や砲術を学びます。

薩英戦争の直前に、松木弘安(寺島宗則)と共に薩英戦争時イギリス側の捕虜となり、罪人扱いとなった五代は幕吏らから逃れるため、長崎に潜伏します。この時にイギリスの武器商人だったトーマス・グラバーと親しい間柄になります。世界の動き、日本の情勢に危機感を感じた五代は、1864年、薩摩藩に対して今後の国づくりに対する次のような上申書を提出しました。

「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ 世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」

この五代友厚の上申書が引き金となり、富国強兵をめざしていた薩摩藩の侍たちによる【命がけの英国留学】が決行されることとなりました。

当時のサムライ留学生のメンバー
【薩摩スチューデント】

総勢19名の侍たち!
この19名は幕末から明治にかけて活躍した、いわば【ラストサムライ】たちです。

※帰国後に特に社会的に大きな働きをした人物の名前を青字にしています。

■新納 久脩 (にいろ ひさのぶ)
団長(視察員として参加)
当時32歳で、寺島とともに最年長だった。
渡欧中は、五代・寺島・堀を伴いヨーロッパ各地を視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどをした。薩摩藩の家老・裁判所判事となる。その後大島島司として奄美の近代化に尽力。

■五代 友厚 (ごだい ともあつ)
視察員として参加。当時、29歳。
1857年、藩命により長崎で航海術を学ぶ。
薩英戦争時、寺島とともにイギリスの捕虜となる。(本人たちが下船を拒否したため)その後、長崎滞在中に「五代友厚上申書」を提出し、薩摩藩による英国留学を実現させた。渡欧中は、新納・堀とともにヨーロッパ各国を回り、武器や紡績機械の買い付けを行う。1866年に日本へ帰国。 帰国後は参与職外国事務掛・外国官権判事・大阪府権判事兼任などを歴任し、大阪に造幣寮(造幣局)を誘致する。
1869年には大阪で大実業家へ転身し、大阪商法会議所を創設し初代会頭就任、大阪経済に多大な功績を残した。

■堀 孝之 (ほり たかゆき)
視察員として参加。当時、19才。
長崎のオランダ通詞(通訳)で、通訳として参加。
渡欧中は、新納・五代・寺島とともにヨーロッパ各国を回り、1866年帰国。五代が実業家転身後も五代の片腕として生涯協力する。

薩摩藩英国留学生記念館 薩摩留学生 イギリス留学

[写真①]

後列左から: 朝倉盛明(21歳)・町田申四郎(17歳)・鮫島尚信(20歳)・寺島宗則(32歳)・吉田清成(20歳)
前列左から: 町田清蔵(14歳)・町田久成(27歳)・長沢鼎(13歳)

[写真① 後列左から 人物紹介]

■朝倉 盛明 (あさくら もりあき)
留学中、イギリスから、フランスに留学先を変え、1867年に帰国。
帰国後は藩の語学教師となった後、明治政府でフランス人技師フランソア・コワニエの通訳をするとともに、兵庫県の生野鉱山の開発に取り組んだ。

■町田 申四郎 (まちだ しんしろう)
帰国後は、小松帯刀の養子になるが、1872年、帯刀の長男清直に家督をゆずり宮崎に居住。

■鮫島 尚信 (さめしま なおのぶ)
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。1868年、森とともに帰国。帰国後は明治政府の外交官として活躍。フランス、ポルトガル、スペインの広使も努めた。

■寺島 宗則 (てらしま むねのり)
視察員のひとりとして参加。団長の新納とともに最年長の32歳。
薩英戦争の時に五代とともにイギリスの捕虜となる。
渡欧中は、イギリス外務省との外交交渉にあたり、帰国後は外交と条約改正に尽力。日本電信の父とも呼ばれている。

■吉田 清成 (よしだ きよなり)
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。大学で政治経済を学び、銀行保険業務を修得。
帰国後は、大蔵省に出仕し、岩倉使節団に随行。その後は、アメリカ特命全権公使として、条約改正に専念した。

[写真① 前列左から 人物紹介]

■町田 清蔵 (まちだ せいぞう)
慶応2年夏フランスに渡り、プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)を見学した。後年留学当時のことを「財部実行回顧談」で綴る。

■町田 久成 (まちだ ひさなり)
大英博物館などイギリスの博物館に感銘を受ける。帰国後は、当時日本で行われていた廃仏毀釈による文化財の破壊や、文化財の海外流出を阻止するために、博物館の建設や文化財の保護、調査のために尽力し、帝国博物館(現:東京国立博物館)の初代館長となった。

■長沢 鼎 (ながさわ かなえ)
留学当時、13歳。留学生の中では最年少!
イギリスでは、他の留学生とは別にスコットランドのトーマス・グラバーの実家に寄宿しながら、地元の中学に通った。非常に優秀で地元の新聞に名前が載せられるほどだった。

1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。ハレスのもとへ旅立った留学生5名の中で彼一人が最後までハリスのもとに残った。彼はブドウ栽培、ワイン醸造を成功させ、カリフォルニアで後に「ブドウ王」「カリフォルニアのワイン王」「バロン・ナガサワ」などと称される実業家となる。日本に帰国することなくアメリカに永住し、82歳で生涯を閉じた。

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[写真②]

後列左から: 高見弥一(21歳)、村橋久成(22歳)、東郷愛之進(23歳)、名越時成(17歳)
前列左から: 畠山義成(22歳)、森有礼(17歳)、松村淳蔵(23歳)、中村博愛(22歳)

[写真② 後列左から 人物紹介]

■高見 弥一 (たかみ やいち)
土佐藩出身。薩摩藩にとりたてられてからこの名を名乗るが、過去に吉田東洋暗殺事件を起こした大石団蔵(おおいし だんぞう)と同一人物。 帰国後は明治政府に出仕するも後に鹿児島で算術教員として過ごした。

■村橋 久成 (むらはし ひさなり)
帰国後は、戊辰戦争に従軍し、1871年より開拓使となる。
ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ、札幌で麦酒(ビール)醸造所を建設、これが現在のサッポロビールの前身となった。

■東郷 愛之進 (とうごう あいのしん)
帰国後、戊辰戦争に従軍し、1868年26歳の若さで戦死。

■名越 時成 (なごや ときなり)
帰国後は戊辰戦争に従軍、その後の経歴は不明。

[写真② 前列左から 人物紹介]

■畠山 義成 (はたけやま よしなり)
畠山義成洋行日記」を書いた人物。鹿児島を出発してからロンドン到着直までの様子がわかる貴重な書。
留学が金銭的に行き詰ってきた1867年、留学を続けるため宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。帰国後は文部省に出仕し、東京開成学校(現:東京大学)校長を勤めた。

■森 有礼 (もり ありのり)
留学中松村とロシア旅行に出かけ、「航魯紀行」という旅行記を残した人物。
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。1868年、鮫島とともに帰国。帰国後は初代文部大臣を勤めるが、廃刀論や英語教育論など革新的な森の考えは、当時の日本では反発を生み、1889年暗殺された。

■松村 淳蔵 (まつむら じゅんぞう)
イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。その後1869年にはアナポリス海軍兵学校に入学。帰国後は海軍兵学校校長として、日本の海軍教育に力を注いだ。

■中村 博愛 (なかむら はくあい)
留学中に、イギリスから、フランスに留学先を代えている。
帰国後は薩摩藩開成所のフランス語教授となるが、西郷従道らの通訳として再び渡仏、以後駐オランダ公使、駐デンマーク公使をつとめた。

なぜ当時 命がけの留学だったのか?

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鹿児島中央駅前東口広場にそびえる薩摩藩英国留学生17名の像[若き薩摩の群像]彫刻家、中村晋也が制作した

By そらみみ – 投稿者自身による撮影, CC 表示 3.0, Link

当時は、イギリスへの留学などご法度。
徳川幕府は三代将軍家光(いえみつ)の時代から海外との交流を制限する「鎖国」を始め、海外への渡航はもちろん、帰国したものでも厳しく禁じられていました。この鎖国制度は230年間に渡っています。

国禁である海外留学を実現するために、薩摩藩のイギリス留学は【甑島・大島の視察】と称した、事実上の【密航】でした。

彼らは、

「二度と薩摩の地は踏めないかもしれない」

と覚悟し、サムライにとって重要な「髷(まげ)」を切りおとしました。

出発は、1865年の4月17日。

薩英戦争から2年後、日本では禁門の変がおこった年です。

鹿児島県 いちき串木野市 羽島(はしま)の小さな漁港から小さな小舟に乗って出発。

蒸気船オースタライエン号に乗り移り、イギリスへと旅立ちました。

アジアからヨーロッパへの船旅は2ヶ月にわたり、

1865年6月21日朝早く一行をのせたデリー号が英国サウサンプトン港へ入港。

その日のうちに汽車でロンドンのウォーター・ルー駅に到着しました。

大英帝国の首都ロンドンの生活を命がけでスタートさせた19名のサムライたちは何を思ったのでしょうか?

おすすめの本

薩摩藩イギリス留学生の本は何冊かでていますが、物語として読むのにおすすめな本はこちら。留学生達の2ヶ月間の船旅の様子が綿密に描かれています。旅にでてみたくなる一冊。

もう一冊、薩摩藩だけでなく長州藩(長州ファイブ)の留学や、他の藩士たちのさまざまな国への留学を紹介した本。単独で渡航した人もいます。幕末の歴史を知る上で、とても興味深くよめる一冊!

まとめ

ここまで、わたしが実家の鹿児島 いちき串木野市 羽島(はしま)に建てられた[薩摩藩英国留学生記念館]を訪れた際に

[ああ!もっと下調べをしておけばよかった!]と感じたことをまとめてみました。

いちき串木野市は、まぐろ漁が有名で、のんびりした町です。

こんなのんびりした町のちいさな漁港から出発した19名。

彼ら留学生の多くが、留学中に吸収した語学や文化、さまざまな技術を帰国後に力を発揮し、日本の近代化に貢献しました。

この[薩摩藩英国留学生記念館]を訪れてみて、こんなことを思いました。

わたしが、子供時代からずっと心に思っていたこと。

「昔の人は命がけで世界を旅した。」
「現在は、お金さえあれば数時間で世界へ旅ができる」
「世界へ旅したいのに、行かないのは、ただの自分の怠慢だ」

沖縄で、リゾートホテルの企画営業をしていたときのこと。
あまりにも充実し楽しい毎日の中で、夜寝る前に[わたし このまま死ねない]とふと思ったことがきっかけで、昔からの夢だった[海外に住む]を実行しました。

やりたいことがあるのにしない いいわけ。(過去のわたしが思っていたこと)

「お金がないから」
「仕事がやめられないから」
「今が楽しいから」
「親が悲しむから」
「まわりがどう思うか不安」

人生短し!やりたいことがあれば、それをやるのは確実に「今」です。

明日には自分がどうなっているかなんて誰にもわからないですよね。

例えば、わたしの人生は、長くてもあと50年です。
この死期を強く感じたあることがきっかけで、私はこんなことを考えました。

人生の残りの50年

●50年の間に自分に何ができるか?
●あと50年の間に何を子供に残せるか?
●「今」が積もり重なって50年、大事なことは未来の心配ではなく【今】の充実だ。

薩摩藩の留学生たちの年齢をみてみましょう。

視察員の新納32歳、寺島32歳、五代29歳、堀19歳をのぞくと、留学生の平均年齢は、なんと20歳です。

20歳のとき、わたしは広島で学生でハメをはずして遊び回っていました。
鹿児島の田舎で封建的に育ったので、はじめての一人暮らしに自由を感じて何もかもが楽しかった。深く考えることなく、周りについていっていただけの時期です。私の幸運は、まわりに知識が深く、思慮深い大人が多かったことです。

留学途中にアメリカに渡り、後に「ワイン王」と呼ばれた長沢 鼎 (ながさわ かなえ)は最年少の13歳。現在でいうと中学1年か2年生くらいです。写真をみてもまだ幼い「こども」ですよね。

また、朝ドラで人気を博した五代友厚、「五代さま」は、29歳で留学し、帰国後は大阪経済界に貢献しますが、亡くなったのは49歳。留学からたった20年で、日本経済界への偉業をなしとげました。

【薩摩藩 英国留学生 記念館】を訪問して、感じたこと、いいたいことは、ひとつ。

「したいことがあれば「今」がそのとき。」

ということでした!

幕末のサムライたちに刺激されました。あっぱれ!

次回は、【薩摩藩英国留学生記念館】を訪れるひとのために記念館の見どころ、魅力を紹介します。

鹿児島はイギリスと深いかかわりが深く、歴史的にも風土的にもおもしろい地域です。

おいでませ!鹿児島。

旅にでるなら[今」です!


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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