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薩摩藩英国留学生記念館で学ぶ!幕末の日英交流を体験する旅へ

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島
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イギリスへ留学、ワーキングホリデーをする日本人たちは、後を立ちません。

かくいう私も、1年間ロンドンで語学留学をした経験があります。

英国留学生たちの先駆者たちは、命がけの【密航】でイギリスへ渡りました。この19名の薩摩藩の侍たちの話を知っていますか?

わたしの田舎である鹿児島県の漁村、いちき串木野市羽島(はしま)。

この小さな漁港から、幕末の薩摩藩士のサムライ達がイギリスへ向けて留学の旅に出ました。

今ではその場所に【薩摩藩 英国留学生 記念館】が建っています。今回の日本一時帰国で初めて訪れたその記念館で、思わずこころが熱くなりました。

この記事では、わたしが「薩摩藩 英国留学生 記念館へ行く前に下調べしておくべき歴史と留学生の概要」、「記念館へ実際にいってみた体験レビューを紹介します。

アルノ

【旅にでたいけど、腰がおもくなってる】という人にもおすすめです

目次

薩摩藩英国留学が実現した歴史的背景

まず、この留学が実現したのは次の2つの理由からでした。

  1. 幕末の薩摩藩とイギリスが友好関係にあった
  2. 五代 友厚(ごだい ともあつ)という人物の功績

①幕末ー薩摩藩とイギリスの友好関係

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By Hayakawa Shozan (早川松山) – 不明, パブリック・ドメイン, Link

【生麦事件(なまむぎじけん)】、イギリスと薩摩を語る上で、この事件ははずせません。

江戸時代末期1862年9月、当時薩摩藩の島津久光(しまず ひさみつ)の大名行列が武蔵野国生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差しかかったとき。大名行列に乗馬で日本見物をしていたイギリス商人ら4人が通りかかります。

薩摩藩士たちが停めるものの、イギリス人たちは意味を理解できず久光の駕籠(かご)近くまで来たところで、数人の薩摩藩士達が無礼討ちし英国人を殺傷。1人が死亡、2名が重体という事態が置きました。

これが【生麦事件(なまむぎじけん)】です。

この事件をうけ、イギリス側は、幕府に対し謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対しては犯人の処刑と2万5000ポンドの賠償金を要求。しかし、薩摩藩は要求を拒否(!)します。

KagoshimaJapaneseDepiction.jpg
パブリック・ドメイン, Link

8月15日、とうとうイギリス側は、薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段にでます。(この時に後の英国留学生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となる。)

これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は砲撃を開始し、イギリス艦隊とで激しい砲撃戦となりました。

薩摩藩側は鹿児島城下は焼け、多くの砲台が崩壊したが、死者は出ませんでした。

イギリス側は、軍艦1隻が大破、他2隻も被害をうけ、死傷者は63人となり、8月17日、イギリス艦隊は薩摩を撤退し横浜へ戻りました。

その後、横浜のイギリス公使館で講和談判がおこなわれ、薩摩藩が2万5,000ポンドを幕府から借金し支払うことで和解が成立します。
(でも結局 この借りたお金を幕府に返さなかった薩摩。うわー!)

しかもこの講和交渉中、大胆にも薩摩側はイギリス側に軍艦購入を依頼します。イギリスも薩摩を高く評価するようになり、ここに、イギリス対一藩のひとつにすぎない薩摩の関係が深まっていきました。

当時、世界最強と謳われたイギリス海軍が事実上敗退した結果となったのは西洋社会では驚くべきことであり、この一連の事件は、日本人の勇猛さを高く評価し、日本を侮るなかれ、と評されました。

②五代 友厚(ごだい ともあつ)の上申書

Godai Tomoatsu.gif
By user:MChew投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

幕末から明治にかけ活躍した元薩摩藩士の実業家。(1835~1885年)

NHK朝ドラの「あさが来た」でディーン・フジオカが五代役に扮し人気になりました。今でも、【薩摩藩英国留学生記念館】には、「あさが来た」のドラマの五代ファンが訪れると言っていました。

五代は、子供のころから秀才で名高く、長崎に海軍伝習所が開設されると伝習生となり、勝海舟(かつ かいしゅう)らと西洋の航海術や砲術を学びます。

薩英戦争の直前に、松木弘安(寺島宗則)と共に薩英戦争時イギリス側の捕虜となり、罪人扱いとなった五代は幕吏らから逃れるため、長崎に潜伏します。この時にイギリスの武器商人だったトーマス・グラバーと親しい間柄になります。世界の動き、日本の情勢に危機感を感じた五代は、1864年、薩摩藩に対して今後の国づくりに対する次のような上申書を提出しました。

「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得しなければ 世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」

この五代友厚の上申書が引き金となり、富国強兵をめざしていた薩摩藩の侍たちによる【命がけの英国留学】が決行されることとなりました。

当時のサムライ留学生のメンバー
【薩摩スチューデント】

総勢19名の侍たち。この19名は幕末から明治にかけて活躍した、いわば【ラストサムライ】たちです。

※帰国後に特に社会的に大きな働きをした人物の名前を青字にしています。

■新納 久脩 (にいろ ひさのぶ)
団長(視察員として参加)
当時32歳で、寺島とともに最年長だった。
渡欧中は、五代・寺島・堀を伴いヨーロッパ各地を視察をしながら、紡績機械や武器の買い付けなどをした。薩摩藩の家老・裁判所判事となる。その後大島島司として奄美の近代化に尽力。

■五代 友厚 (ごだい ともあつ)
視察員として参加。当時、29歳。
1857年、藩命により長崎で航海術を学ぶ。
薩英戦争時、寺島とともにイギリスの捕虜となる。(本人たちが下船を拒否したため)その後、長崎滞在中に「五代友厚上申書」を提出し、薩摩藩による英国留学を実現させた。渡欧中は、新納・堀とともにヨーロッパ各国を回り、武器や紡績機械の買い付けを行う。1866年に日本へ帰国。 帰国後は参与職外国事務掛・外国官権判事・大阪府権判事兼任などを歴任し、大阪に造幣寮(造幣局)を誘致する。
1869年には大阪で大実業家へ転身し、大阪商法会議所を創設し初代会頭就任、大阪経済に多大な功績を残した。

■堀 孝之 (ほり たかゆき)
視察員として参加。当時、19才。
長崎のオランダ通詞(通訳)で、通訳として参加。
渡欧中は、新納・五代・寺島とともにヨーロッパ各国を回り、1866年帰国。五代が実業家転身後も五代の片腕として生涯協力する。

薩摩藩英国留学生記念館 薩摩留学生 イギリス留学
[写真①]

後列左から: 朝倉盛明(21歳)・町田申四郎(17歳)・鮫島尚信(20歳)・寺島宗則(32歳)・吉田清成(20歳)
前列左から: 町田清蔵(14歳)・町田久成(27歳)・長沢鼎(13歳)

[写真① 後列左から 人物紹介]

■朝倉 盛明 (あさくら もりあき)
留学中、イギリスから、フランスに留学先を変え、1867年に帰国。
帰国後は藩の語学教師となった後、明治政府でフランス人技師フランソア・コワニエの通訳をするとともに、兵庫県の生野鉱山の開発に取り組んだ。

■朝倉 盛明 (あさくら もりあき)
留学中、イギリスから、フランスに留学先を変え、1867年に帰国。
帰国後は藩の語学教師となった後、明治政府でフランス人技師フランソア・コワニエの通訳をするとともに、兵庫県の生野鉱山の開発に取り組んだ。

■町田 申四郎 (まちだ しんしろう)
帰国後は、小松帯刀の養子になるが、1872年、帯刀の長男清直に家督をゆずり宮崎に居住。

■町田 申四郎 (まちだ しんしろう)
帰国後は、小松帯刀の養子になるが、1872年、帯刀の長男清直に家督をゆずり宮崎に居住。

■鮫島 尚信 (さめしま なおのぶ)
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。1868年、森とともに帰国。帰国後は明治政府の外交官として活躍。フランス、ポルトガル、スペインの広使も努めた。

■寺島 宗則 (てらしま むねのり)
視察員のひとりとして参加。団長の新納とともに最年長の32歳。
薩英戦争の時に五代とともにイギリスの捕虜となる。
渡欧中は、イギリス外務省との外交交渉にあたり、帰国後は外交と条約改正に尽力。日本電信の父とも呼ばれている。

■吉田 清成 (よしだ きよなり)
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。大学で政治経済を学び、銀行保険業務を修得。
帰国後は、大蔵省に出仕し、岩倉使節団に随行。その後は、アメリカ特命全権公使として、条約改正に専念した。

[写真① 前列左から 人物紹介]

■町田 清蔵 (まちだ せいぞう)
慶応2年夏フランスに渡り、プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)を見学した。後年留学当時のことを「財部実行回顧談」で綴る。

■町田 久成 (まちだ ひさなり)
大英博物館などイギリスの博物館に感銘を受ける。帰国後は、当時日本で行われていた廃仏毀釈による文化財の破壊や、文化財の海外流出を阻止するために、博物館の建設や文化財の保護、調査のために尽力し、帝国博物館(現:東京国立博物館)の初代館長となった。

■長沢 鼎 (ながさわ かなえ)
留学当時、13歳。留学生の中では最年少!
イギリスでは、他の留学生とは別にスコットランドのトーマス・グラバーの実家に寄宿しながら、地元の中学に通った。非常に優秀で地元の新聞に名前が載せられるほどだった。1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。

ハレスのもとへ旅立った留学生5名の中で彼一人が最後までハリスのもとに残った。彼はブドウ栽培、ワイン醸造を成功させ、カリフォルニアで後に「ブドウ王」「カリフォルニアのワイン王」「バロン・ナガサワ」などと称される実業家となる。日本に帰国することなくアメリカに永住し、82歳で生涯を閉じた。

薩摩藩英国留学生記念館 薩摩留学生 イギリス留学
[写真②]

後列左から: 高見弥一(21歳)、村橋久成(22歳)、東郷愛之進(23歳)、名越時成(17歳)
前列左から: 畠山義成(22歳)、森有礼(17歳)、松村淳蔵(23歳)、中村博愛(22歳)

[写真② 後列左から 人物紹介]

■高見 弥一 (たかみ やいち)
土佐藩出身。薩摩藩にとりたてられてからこの名を名乗るが、過去に吉田東洋暗殺事件を起こした大石団蔵(おおいし だんぞう)と同一人物。 帰国後は明治政府に出仕するも後に鹿児島で算術教員として過ごした。

■村橋 久成 (むらはし ひさなり)
帰国後は、戊辰戦争に従軍し、1871年より開拓使となる。
ドイツで醸造技術を学んだ中川清兵衛を雇い入れ、札幌で麦酒(ビール)醸造所を建設、これが現在のサッポロビールの前身となった。

■東郷 愛之進 (とうごう あいのしん)
帰国後、戊辰戦争に従軍し、1868年26歳の若さで戦死。

■名越 時成 (なごや ときなり)
帰国後は戊辰戦争に従軍、その後の経歴は不明。

[写真② 前列左から 人物紹介]

■畠山 義成 (はたけやま よしなり)
「畠山義成洋行日記」を書いた人物。鹿児島を出発してからロンドン到着直までの様子がわかる貴重な書。
留学が金銭的に行き詰ってきた1867年、留学を続けるため宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。帰国後は文部省に出仕し、東京開成学校(現:東京大学)校長を勤めた。

■森 有礼 (もり ありのり)
留学中松村とロシア旅行に出かけ、「航魯紀行」という旅行記を残した人物。
1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。1868年、鮫島とともに帰国。帰国後は初代文部大臣を勤めるが、廃刀論や英語教育論など革新的な森の考えは、当時の日本では反発を生み、1889年暗殺された。

■松村 淳蔵 (まつむら じゅんぞう)
イギリス留学が金銭的に行き詰ってきた1867年、留学を続けるため、宗教家ハリスを訪ねアメリカへ渡る。その後1869年にはアナポリス海軍兵学校に入学。帰国後は海軍兵学校校長として、日本の海軍教育に力を注いだ。

■中村 博愛 (なかむら はくあい)
留学中に、イギリスから、フランスに留学先を代えている。
帰国後は薩摩藩開成所のフランス語教授となるが、西郷従道らの通訳として再び渡仏、以後駐オランダ公使、駐デンマーク公使をつとめた。

なぜ当時 命がけの留学だったのか?

Statue of Young Satsuma Pioneers.jpg

鹿児島中央駅前東口広場にそびえる薩摩藩英国留学生17名の像[若き薩摩の群像]彫刻家、中村晋也が制作した

By そらみみ – 投稿者自身による撮影, CC 表示 3.0, Link

当時は、イギリスへの留学などご法度だった時代。

徳川幕府は三代将軍家光(いえみつ)の時代から海外との交流を制限する「鎖国」を始め、海外への渡航はもちろん、帰国したものでも厳しく禁じられていました。この鎖国制度は230年間に渡っています。

国禁である海外留学を実現するために、薩摩藩のイギリス留学は【甑島・大島の視察】と称した、事実上の【密航】でした。

彼らは、

「二度と薩摩の地は踏めないかもしれない」と覚悟し、サムライにとって重要な「髷(まげ)」を切りおとしました。出発は、1865年の4月17日。薩英戦争から2年後、日本では禁門の変がおこった年です。

鹿児島県 いちき串木野市 羽島(はしま)の小さな漁港から小さな小舟に乗って出発。蒸気船オースタライエン号に乗り移り、イギリスへと旅立ちました。

アジアからヨーロッパへの船旅は2ヶ月にわたり、1865年6月21日朝早く一行をのせたデリー号が英国サウサンプトン港へ入港。その日のうちに汽車でロンドンのウォーター・ルー駅に到着しました。

大英帝国の首都ロンドンの生活を命がけでスタートさせた19名のサムライたちは何を思ったのでしょうか?

薩摩藩留学生記念館の体験レビュー!

鹿児島県いちき串木野市の小さな漁村、羽島(はしま)。

東シナ海が広がるこの場所は、1865年(元治2年)4月、幕末の薩摩藩のサムライたち19名が幕府の目から逃れ、【密航】でイギリス留学へと旅立った場所でした。

私が小さなころ、ここには小さな石碑が建っているだけでした。

日本幕末・近代の歴史に注目が集まる中、2015年の薩摩藩英国留学生渡欧150週年に、その資料の収集展示と偉業を紹介するミュージアム設立が決定。

記念館は、羽島の真っ青な海を背景に赤レンガの薩摩式洋館が映える、2階建ての美しい記念館です。

鹿児島にいて、ここへ行かないなんてもったいない!

今回は、母と妹、姉と私の4名家族でドライブがてら行ってみました。

薩摩藩留学生記念館への行き方は?

【留学館の場所】

〒896−0064
鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地
TEL 0996−35−1865


■車でドライブの場合
鹿児島市内から「南九州西回り自動車道」を通って、約1時間です。

■九州新幹線でいくなら
川内駅で降り、鹿児島本線へ乗り換え、串木野駅へ。
串木野駅からは、車(タクシー)で約15分。

■バスでの行きかた
川内駅からと串木野駅から羽島小学校前まで路線バスが運行しています。
しかし本数が少なく、おすすめはしません。一人旅にはよいかも。
(例)川内ー羽島(羽島小学校前 下車)いわさきバスネットワーク川内営業所

■無料シャトルバスもある
もしくは5以上の人数がいれば、無料のシャトルバスを運行してくれます。これは、事前の予約が必要!
記念館へ電話予約しましょう。(TEL 0996−35−1865)

いちき串木野市から羽島への道は、真っ青な東シナ海が広がり、気持ちも爽快!

道沿いにモダンな記念館の旗じるしも見えてくるので、迷うこともありません。

真っ青な海を背景に、火山灰赤レンガづくりのモダンな洋館がみえてきました。

ちなみに駐車場は 記念館前と少し離れた別の場所がありますが、離れた駐車場からは無料送迎バスがでているので安心です。

駐車場の対応も、車椅子やお年寄りがいるとアクセスのいい場所を提供してくれたり、神対応で有名なんです。

薩摩藩留学生記念館1階はどうなっている?(2階建て)

1階は、入口を入ってすぐ目にするのが、左のカフェと右の図書館。奥にショップ、資料展示場となっています。

カフェは地元民にも人気!

薩摩藩英国留学生記念館 カフェ 鹿児島カフェは地元民からもゆっくりできるスポットして有名で、カフェ目当ての地元民も集っています。

地元の友人に聞いたおすすめメニューは、イングリッシュマフィンのスペシャルバーガー(ドリンク付きで700円)でした。
他に、羽島牛をつかったメニューやイングリッシュ・アフタヌーンティーセットもあります。

特にバスできた人は時間に余裕もあるし、カフェで一休みしましょう。

カフェにいったら、壁(薩摩の武家屋敷をイメージしたベンガラ色の壁)と、屋外へでれるデッキもチェック!

ライブラリで資料あさり

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

入り口からはいって右には薩摩藩のイギリス留学に関係する書籍やいちき串木野市羽島に関すること、幕末の歴史にかんする資料がずらーーーと並んでいます。

4人家族ででかけたので、ゆっくりこの図書館で資料をよむ時間がなかった!

次回は、この図書館で資料あさりをしたい!

ショップでお土産えらび

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

お土産コーナーですね!

「さるぼぼさま」ありました。

いざ入場!お得な入場方法は?

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

入場料など基本情報は、この記事の下にもまとめています。

大人(高校生以上)は、300円
こども(小・中学生)は200円
未就学児は無料

です。記念館入場料としてはサイフに優しい金額です。

お得な料金としては、20名以上だと団体割引があるということと、障害者手帳があれば50円引き、年間パスポート制度があること。

ただ、夏休み期間中など一時的に小・中学生無料のキャンペーンなどしています。出かける前に、HPのホームにある[最新情報]をチェックしてでかけましょう。

薩摩藩英国留学生記念館公式HP

1階の展示品の要チェック

まず入り口には、薩英戦争絵巻。

なぜ薩摩藩のサムライたちが英国留学をすることになったのか?
歴史の流れとそのいきさつがわかる展示から始まっています。

特におすすめは、

薩摩藩の留学について紹介されている2本立てのビデオシアター。

このビデオ、こどもにもわかりやすく楽しく作られています。
まずはこのビデオを座ってじっくり見てみましょう。
これを見れば、薩摩スチューデントの渡英の経緯やその意義、エピソードがわかります。

シアターで英国留学生の知識が深まったところで、展示品をじっくりみてまわりましょう。

1階の展示は、

19名の留学生たちの詳しい紹介や、上申書で留学を実現した五代友厚の紹介、留学生達が出発前に羽島でどのように過ごしていたのか、留学生たちがのこした袴や和歌などの展示がメインとなっています。

この時代の人たちは、和歌で自分の気持ちを伝えているんですよね。和歌の魅力も再発見できました。

そういえば、イギリス人の間でも俳句(Haiku)や短歌(Tanka)が人気です。オックスフォード辞典にも掲載されているほどです。

薩摩藩留学生記念館2階

階段かエレベータで2階へ。

2階は、イギリス到着後の様子がよくわかる資料展示になっています。
また、海を望む展望デッキへ出ることができます。

留学の旅路ロビー

展示室と展望デッキの間の空間に、ロビーのミニ展示があります。

ここも留学生たちの船旅をイメージした空間となっています。

船旅ルートを示す地球儀(島津斉彬の地球儀がモチーフ)や小舟から大型蒸気船オースタライエン号へ留学生達が乗り移る様子のミニチュアモデルについつい見入り、ロンドンのテムズトンネルや留学生たちが見た時代のビクトリア駅の当時の様子がわかる写真や資料が非常に興味深い。

通りすぎるだけでなく、このロビー展示もじっくり見ましょう!

2階の展示品 要チェック!

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島 薩摩スチューデント
※唯一写真撮影が許可された留学生たちの集合写真

2階の資料展示は、2ヶ月間の船旅の様子や、ロンドン到着後の留学生たちが訪れた場所の紹介、留学生たちが訪問したヨーロッパ各国の紹介、アメリカのカリフォルニアでワイン王となった長沢 鼎(かなえ)の紹介などがメインとなっています。

特におすすめは、

留学生たちの帰国後の功績の資料。

模型やシアターで上映されているので、わかりやすい!

また、イギリス到着後の留学生たちの足跡がわかる資料も、立体の地図や模型など配置され、非常にわかりやすい展示になっています。
これなら小学生でも目でみて理解しやすい。

特別展示室

わたしたたちが訪れたころは「ブドウ王長沢鼎の生涯(最年少の留学生)」がテーマで企画展示されていました。
ミニシアターで長沢の生涯も紹介され、椅子にゆっくり座って鑑賞できました。

機帆船デッキ(展望デッキ)

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

ここは、留学生達が乗ったオースタライエン号をイメージしています。

目前に雄大な羽島の海、下を見下ろせば、留学生が出発した瀬を眺めることができます。

まるで船にのっているかのような感覚を味わえるこの展望デッキから、
海を眺めていると、無性に旅にでたくなりました。

薩摩藩留学生記念館 基本情報

  • 住所:〒896−0064 鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地
  • TEL : 0996−35−1865
  • 開館時間:10:00~17:00(基本)
  • 休館日:火曜(火曜が祝日の場合翌日/12月29日~12月31日)
  • 入場料金:大人(高校生以上)300円、小人(小学生~中学生)200円、未就学児無料
  • 公式HP:「薩摩藩英国記念館

まわり(羽島)のおすすめ観光スポットまわり!

レンタル自転車でまわりをぐり

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

くしき野白浜温泉

鹿児島来るなら、温泉宿!
羽島までくるなら、もう近場の温泉に泊まっちゃえば?

ここは、サンセットが非常に美しいことで地元民にも愛される温泉。
地元民からは、コーヒーが美味しいと噂です。

●ポイントがたまってお得のキャンペーンがある楽天トラベルで宿泊予約できます!↓↓↓

くしき野白浜温泉 みすまるの湯

串木野サンセットパーク展望台

美しいサンセットを一望できる展望台。

ドライブで来て、夕日のおちるころに訪れるならぜひここへ!
いろんな工夫もあり、

■希望の銅鑼(ドラ)ー(何を願うかでドラを鳴らす回数が変わってる)
■ハッピーイエローフラッグー(お願いごとを旗に書いて備え付けのポストに投函する:有料)

などもあります。
これは行ってみればわかる楽しいしかけ。

まぐろラーメン

●味工房みその

串木野市を中心にハンバーク、とんかつ、ラーメンなどの店舗展開をしている老舗の食堂。味に定評があり、地元民からも愛されています。

もち、わたしも「まぐろラーメン」食べました!まぐろ、、、意外にラーメンに合う!スープもコクがあり麺とよく絡みます。

他の店のまぐろラーメンも試しましたが、臭みが気になったり、見た目が悪かったり。ここのまぐろラーメンなら美味しくいただけるのです。ものは試しに!

▼わたしたち家族のいきつけの寿司店は「鮨処大助” data-type=”URL” data-id=”鮨処大助“>鮨処大助」です。

魚がとにかく新鮮で、ここちいい。料金が海鮮丼定食(貝のお味噌汁、茶碗蒸し、サラダ、デザート、コーヒー付き)で、1,300円ほど!敷居が高くないけど、串木野の採れたて魚介類をあじわえる幸せレストランです。

串木野にきたら「大助」へ。一時帰国したら1~2回は顔をだしてます!

鮨処大助

これぞ大穴場!猿島(さるしま)

いちき串木野市羽島にある沖の島(通称:猿島)を回遊するクルーズ船があります。

その名も、薩摩藩のイギリス留学生たちが渡航に使った「オースタライエン号」!船乗場も、「薩摩藩英国留学生記念館」の先に看板がでています。

クルーズして小さな島にたどり着くと、そこは猿だらけの島!TV番組の「いきなり!黄金伝説」で放映されてから、知名度があがったものの、まだまだ落とすれる人は少ない秘境です。

詳しくは、こちらのサイトでチェック↓↓

れいめい羽島観光船情報

まとめ

以上「【薩摩藩英国留学生記念館】記念館へいく前にこれだけしっておきたいこと」の記事を紹介しました。

いちき串木野市は、まぐろ漁が有名で、のんびりした町です。こんなのんびりした町のちいさな漁港から出発した19名。彼ら留学生の多くが、留学中に吸収した語学や文化、さまざまな技術を帰国後に力を発揮し、日本の近代化に貢献しました。

さつま留学生たちの年齢をみてみると…視察員の新納32歳、寺島32歳、五代29歳、堀19歳をのぞくと、留学生の平均年齢は、なんと20歳です。

留学途中にアメリカに渡り、後に「ワイン王」と呼ばれた長沢 鼎 (ながさわ かなえ)は最年少の13歳。現在でいうと中学1年か2年生くらいです。写真をみてもまだ幼い「こども」です。

また、朝ドラで人気を博した五代友厚、「五代さま」は、29歳で留学し、帰国後は大阪経済界に貢献しますが、亡くなったのは49歳。留学からたった20年で、日本経済界への偉業をなしとげました。

【薩摩藩 英国留学生 記念館】を訪問して、感じたこと、いいたいことは、ひとつ。

「したいことがあれば「今」がそのとき。」ということでした!

鹿児島はイギリスと深いかかわりが深く、歴史的にも風土的にもおもしろい地域です。

おいでませ!鹿児島。旅にでるなら[今」です!

しかし行ってみるとそんな思はふっとぶほど資料は充実していました。留学生たちの想いもさることながら、この資料を集めるのに、どれだけの人々の尽力があって実現したのか!

とにかく、歴史好きにも歴史に興味がない人にも、思わず心があつくなる最高の鹿児島旅のスポットです。

シアターや当時の様子のわかる模型、あちこちに工夫された当時の様子を再現した施設!
こどもでも十分にわかりやすい内容です。

また、バリアフリー設計になっているので、障害があってもお年寄りでも車椅子で安全にストレスなく見て回ることができます。

今回訪れた私達4人家族、足の弱い母もゆっくり見てわかることができました。

鹿児島へ来るときは、観光スポットのひとつとして非常におすすめです。

あなたの人生もかわるかもしれません。

鹿児島の旅行の検索は かんたん楽天トラベルで!↓↓↓↓

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。Byアルノ

薩摩藩英国留学生記念館 鹿児島

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