イギリスとアイルランドの関係と北アイルランド問題

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イギリスからこんにちは。イギリスに来るまでイギリスが4つの国との連合王国だとは知らなかったアルノです。

3月17日のセント・パトリックス・デー。私はイギリスのプロテスタント教会のイベントの一つとして参加しました。

聖パトリックスのことを調べているうち、イギリスとアイルランドの密接で複雑な関係に興味をもち、改めてまとめてみました。ケルト文化、北アイルランド、IRA、タイタニック、、、。

イギリスに留学、滞在、移住した場合、例えば聖パトリックスデーで、バブで、ラグビーやサッカー会場で、映画で、、イギリスとアイルランドの関係性の話題は必ず耳にします。この記事を頭にいれておくことで、アイルランドが話題になったときにより興味をもって話題に参加し、理解を深めることができると思います。

イギリスに興味がある方も、ぜひご参考ください。

わたしが感じたアイルランド・ダブリン

アイルランドのダブリンに2泊3日で滞在したことがあります。

アイルランド名物とアイルランドの観光に期待していたわたしでしたが、実際に訪れてみてのわたしの正直な感想は、、

「うわ~イギリスとそっくり!」

食べるものも、建物も、街を行き交う人々も、雰囲気も。まるでリトルイギリス。なんてつまらない。。」

私は旅先で、実際に現地で出会った人に「おすすめ料理やレストラン、観光場所」を聞くのが好きです。わたしが海外旅行に行くときには、そうやって観光の本ではわからない美味しいレストラン、素敵な場所に出会ってきました。

【ダブリンで実際におすすめされた料理】

・アイリッシュ・シチュー
・アイリッシュ・ブレックファスト

【わたしの感想】

・普通のシチュー、イギリスのイングリッシュ・ブレックダストと同じやないか!

アイルランド滞在中に一番美味しかったのは、テイクアウトのジャケットポテト&ギネスビールでした。特にジャケットポテトは、ポテトが美味しくて今でも思い出します。

アイルランドといって思い出すのは、このジャケットポテトの美味しさとギネスビールの工場ギネスストアハウスと夜に訪れたパブで見たアイリッシュダンスの楽しい一時。

「近いとはいえ別の国なのに、なぜこんなにイギリスに似てるんだろう?」

イギリスとアイルランドの歴史を深く知らなかった当時、漠然とそんな疑問が印象にのこった旅でした。

答えは、アイルランド史にありました。

アイルランドの一部(北アイルランド)はイギリス連合王国である

イギリスは、正式名称を「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」といい、以下の4つの国で構成されます。
ちなみに「UK」とはこの連合王国を指しています。

1.イングランド(日本人がイギリスと感じている地域)
2.ウェールズ
3.スコットランド
4.北アイルランド

アイルランド島は、北海道とだいたい同じくらいの広さだといわれ、島の北端の地域がイギリスに統合されているのです。

アイルランド(Ireland)

・アイルランド島の
・首都はダブリン(Dublin)
・立憲共和制国家
・通過はユーロ(€)

北アイルランド(Northern Ireland)

・アイルランド島の
・首都はベルファスト(Belfast)
・イギリス領
・通貨はポンド(£)

このアイルランド島を南北にわけた理由を知るためにアイルランド史を確認していきます。長い歴史ですが、イギリスとの関係を知るうえで重要です。

アイルランドの歴史

【先史】

アイルランドの先史を感じられるおすすめの場所

■ジャイアンツ・コーズウェイ (Giant’s Causeway)

北アイルランドに残る約5000万年前の火山活動により噴出した溶岩の冷却過程で六角形の玄武岩の柱で、その数4万本ともいわれています。

ジャイアンツ・コーズウェイについては毎日イギリス生活の記事「世界的な噴火活動!イギリスとヨーロッパの火山噴火調べ」でも触れいています。

ジャイアンツ・コーズウェー アイルランド 北アイルランド問題 イギリス関係

■ニューグレンジ (Newgrange) ボイン渓谷遺跡群

紀元前3200年に作られたといわれる巨石遺跡。直径は約100m、20万トンの石を使って作られたといわれ、積み上げられた石の屋根は、5000年以上を過ぎた今も雨もれすることがないといいます。
Newgrange

【ケルト時代】

ケルト人は、古代のヨーロッパに広く散在していた先住民族で、共通した文化を持ちながらも移動を長期間続け、ひとつの国に落ち着くことはありませんでした。また、文字を持たない文化のため、いまだ謎が多く現在も解明が続けられています。

紀元前100年ごろからローマ帝国、ついでゲルマン民族に居地を追われ、西へと移動し、紀元前300年ごろから徐々に現在のスコットランド、ウェールズ、コーンウェル、ブルターニュ、マン島、に渡り、紀元前600年頃にアイルランドの島に渡っています。
特にアイルランドは、12世紀終わりまで国外からの強い影響を受けることがなかったため、ケルト文化がよく保存された場所だと言われます。

この時代、ケルト人が信仰していたのはドルイド教(Druid)
ドルイド教は、太陽と大地の古い神々を信じ、あらゆる生き物の中に霊的な存在を見いだしていました。この思想は、日本人の自然一体化思想と似ています。ケルトでは政治的な統一はありませんでしたが、このドルイド教が文化的な統一、統一言語と民族意識をはぐくむ重要な役目を担っていました。

【キリスト教の伝来】

432年、当時ドルイド教を信仰していたアイルランドにイングランドルーツの聖パトリックがキリスト教布教のために渡来します。(スレーンの丘に到着したといわれる)

彼はキリスト教を広く伝道しますが、ケルト民族古来の信仰や神話、文化を否定せず、逆にそれらと融合する形でキリスト教を広めていきました。
こうしてアイルランドには独特のキリスト教文化が生まれ、修道院が中心となって繁栄します。また、キリスト教の修道士によって文字を持たなかったケルトの古い伝承や詩を文字に残す作業が行われました。これにより今日「ケルト神話」として残る伝承が現代に残ったのです。

現在でもアイルランド各地に点在する修道院跡には小さな石の教会や礼拝堂、アイルランド独自のケルト十字と呼ばれるラテン十字と太陽のシンボルであるリングを組み合わせた十字架が残されています。

このキリスト教修道院による繁栄は8世紀末のバイキングの侵入まで続きました。

※聖パトリックについての詳しい記事は「セントパトリックス・デーを楽しむための8つの豆知識」を参考に。

【バイキングの侵入】

9世紀ごろ、北欧のバイキングがアイルランド侵攻を始めます。バイキングは島の修道院を襲い、文献や装飾品を略奪、この時期の戦闘で数多くの文化遺産が破壊され、栄えた修道院文化の衰退をもたらしたと言われます。

また、政治的統一がなかったアイルランドは、この侵略者に対して防衛を指揮する王がいなかったのです。

11世紀になってから、ブライアン・ボルーがアイルランド全土を統一し全アイルランドの最初の王となり、バイキングの勢力を弱めます。

他のヨーロッパ諸国では1096年から十字軍遠征が始まっています。

【アングロ・ノルマンの侵入】

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ボルーの死後、国を統一すべき主導者が現れず、国内の勢力争いで混乱が続きます。

1166年、レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世(アンジュー朝)に戦いへの援助を求めたことをきっかけに、1171年にはヘンリー2世自らがアイルランドへ赴き、アングロ・ノルマン貴族とアイルランドの諸王達に忠誠を誓わせ、これを征服します。

イギリスはアイルランドへの植民を進め、教皇との交渉でアイルランド卿の称号を手に入れました。

以後、イングランドのアングロ・ノルマン人がアイルランドに政治的介入をして始めます。

アングロ・ノルマン人貴族の進出とイギリス国王は領土を拡大し、1250年までに全島の4分の3を支配しました。彼らは要塞を築き、都市を建設しました。(現在のアイルランドの都市の礎はこの時代に築かれたといわれる)
13世紀になるとイギリスを規範にした社会制度が導入され、中央集権化が進みました。

しかし一方でアイルランド人領主がアングロ・ノルマン人植民者に抵抗し続け、次第にアングロ・ノルマン人の植民地拡大は勢力を失っていきます。
地元民との融合が進み、アングロ・ノルマンが次第にアイルランドの勢力に飲み込まれていきました。

【アングロ・サクソンとアングロ・ノルマン】

アングロ・サクソン
5世紀頃、ローマ帝国が去ったブリテン島に、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称。この中のアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐したといわれます。
ちなみにアーサー王伝説は、アングロ・サクソン人の侵入と戦ったブリトン人の英雄の物語。

アングロ・ノルマン
11世紀に、フランス西北ノルマンジーからノルマンジー公ウィリアムが侵攻し、イギリス王位につきウィリアム1世(征服王)が誕生します。
ノルマン朝(フランス封建貴族による支配)は現在のイギリス王室の開祖となり、アイルランドへも支配を及ぼします。このノルマン朝時代のアングロ・サクソンを歴史的には「アングロ・ノルマン」といいます。

【イングランドによる支配】

15世紀ごろの中世ヨーロッパはルネッサンス(文芸復興)、大航海時代へと移ります。

イギリスはアイルランドをヨーロッパにおける戦略的な重要地と位置づけし、チューダー朝の時代に再びアイルランドを支配します。

1494年ヘンリー7世がアイルランドにおけるアイルランド人総督を罷免させ、新たな総督をイギリスから派遣します。

この時期からアイルランドに対する政策はケルトの文化を否定し、全島をイギリス化していく方針に変わっていきました。

1536年、ヘンリー8世(チューダー朝)がアイルランド国王の称号を得ます。このヘンリー8世はカトリック教会と絶縁しイギリス国教会を設立します。これにより、ローマカトリックとイギリス国教会との間で激しい対立が生まれます。

イギリスで始めたイギリス国教会への宗教改革をアイルランドにも強要。しかし、アイルランド人やアングロ・ノルマン人の領主はこの宗教改革に抵抗し、強いカトリック信仰が残ったことで状況が複雑化していきます。

エリザベス1世の治世になると、アイルランドにヒュー・オニールが現れ、スペイン(カトリック国)を味方にイギリスによるアイルランド征服に対抗、アイルランド九年戦争が始まります。

オニールが率いるアイルランド人領主連合は1605年に鎮圧され、エリザベス1世の次の王、ジェームズ1世アイルランド全土を統治した最初のイギリス人国王となりました。

ジェームズ1世は一時は反乱の拠点であったアルスター地方に英国国教会、スコットランドの長老派教会などのプロテスタントを多く移入させます。これによりアルスター地方はプロテスタントの支配する地域となりました。

現在の北アイルランド問題の起源はここにあります

アルスター地方のカトリックのアイルランド人は追放され、移住してきたプロテスタントの地主集団は次第に規模を拡大していきましたが、この計画的な植民によって北部アイルランドには宗教のみならず、生活様式も他の地方とは異なる社会が形成されます。

1641年には、アイルランドのカトリック信者の不満の蓄積によりアイルランド同盟戦争が勃発。この反乱で数千といわれるイングランド系のプロテスタントが虐殺されました。

イギリスではピューリタン革命によりクロムウェルが実権を握っていました。この事態を受け、1649年からクロムウェルがアイルランドを征服。さらに、17世紀末のボイン川の戦いでプロテスタントの優位が決定的になると、カトリックに対する刑罰法により、カトリック弾圧が始まります。

そして 1801 年には、アイルランドは正式にイギリス連合王国に併合されます。

イギリスでは18世紀から19世紀にかけ産業革命が起こり、工業の発展と近代化の波が押し寄せます。

【アイルランド独立】

1829年、カトリックの法廷弁護士ダニエル・オコンネルが、カトリック教徒解放法を成立させました。オコンネルはアイルランドの英雄と称されています。

1845年から1849年にかけて非常に深刻な大飢饉がアイルランドを襲います。(ポテト飢饉)

ポテトが主食だったアイルランドでポテト疫病とポテト不作が続き、人々は飢えと病気に苦しみます。この飢饉が起きる前のアイルランドは800万人ほどの人口であったのに対し、飢饉で約100万人以上が餓死、約200万人は移住を余儀なくされ、多くがアメリカやカナダ、イギリス本島へ移民しました。その後も人口は減り、1911年までに400万人までに半減しました。現在、アイルランド本国の人口よりアメリカ合衆国のアイルランド移民の数のほうが多いことや、一国の人口が半分に減る事態を考えると、、どれだけすさまじい飢饉だったか想像すらできません。。

■有名な映画、「タイタニック」。
タイタニック号は北アイルランドのベルファストで製造され、このポテト飢饉でアメリカへ移住する人々の様子も描かれています。

この深刻な飢饉被害に対する英政府の対応の不手際が反英感情を高め、飢饉後は土地の奪還と自治・独立を求める政治活動や武力闘争が再び盛んになります。

さらに19世紀末からは、劇作家であるウィリアム・バトラー・イェーツ(ノーベル賞作家)らが中心となって「アイルランド文芸復興」が始まり、ケルト神話やアイルランド語など、アイルランド独自の文化が、アイデンティティの象徴となりました。

1916 年のイースターアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍による武装蜂起が起こり(イースター蜂起)、パトリック・ピアースが共和国の独立を宣言しました。

しかし英国政府軍によって鎮圧。その後首謀者達は処刑されてしまいます。彼らの英雄的行為はアイルランドの人々の独立の気運を高め、 1919 年には独立戦争が始まります。(戦争は2年半続きます)

1921年、英愛条約の制定、1922年に南部アイルランドにアイルランド自由国が成立。

英愛条約により北部アルスター地方のうち6州はイギリス連合王国にとどまり、南北は分離します。

※現在も続く北アイルランド問題は、この英愛条約に始まっている。

この南北の分離によって、1922年から1923 年には内戦、1937年に新しいアイルランド憲法を制定、 1949年にはアイルランド共和国となり、正式に独立を果たしました。

■このアイルランド独立戦争をその後の内戦を主題とした映画があります。
「麦の穂をゆらす風」。心揺さぶられます。一見の価値あり。

北アイルランド問題とは?

1960年代から活発となった北アイルランドのカトリック系住民の分離独立運動。
アイルランドにおけるカトリックとプロテスタントの対立です。

英愛条約により北部アルスター地方のうち6州はイギリス連合王国にとどまり、南北は分離します。北アイルランドのカトリック教徒は少数派で、政治上、仕事、住居などあらゆる面で差別を受け、両者は対立していました。

1960年末から対立が深刻化し、1969年にカトリック系住民の「アイルランド共和国軍(IRA)」が武装闘争を展開し始めます。彼らの主張は北アイルランドのアイルランド共和国への併合であり、イギリスの直接統治に対しては徹底した抵抗を行うとし、70~80年代に激しいテロ活動を展開しました。

紛争は1972年の血の日曜日事件と血の金曜日事件で頂点を迎えます。

テロは北アイルランドのみならず、イギリス、アイルランドにも伝播していきました。

戦闘の長期化に和平の動きが出始め、1998年にはイギリスのブレア政権との間に北アイルランド和平合意が成立。2003年にIRAは武装解除宣言しましたが、北アイルランドの自治はまだ実現していません。

IRAは、アイルランド共和軍Irish Republican Army)のこと。
アイルランド独立闘争(対英テロ闘争)を行ってきたアイルランドの武装組織。
IRAの目的は、アイルランド自由国成立後は、北部6州と南部26州(共和国)とを統一すること、つまり全アイルランドの統一にあります。

血の日曜日事件( Bloody Sunday)
1972年1月30日、北アイルランドで非武装だったデモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された事件。14名死亡、13名負傷。10代の若者が中心だった。事件のあった地区の名を取って「ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)」とも呼ばれる。IRA暫定派は、1970年からイギリス統治に対する反対運動を行っていた。軍が非武装の市民を殺傷したこの事件は、現代アイルランド史における重要な事件である。
血の金曜日事件(Bloody Friday)
1972年7月21日、ベルファストで起こったIRA暫定派による爆破事件。
80分間に20発の爆弾が爆発、9人の死者(2人は英国軍兵士)、130人の負傷者がでた。爆破の一部はIRAとイギリス政府の交渉決裂に対する報復として行われた。

まとめ

3月17日のセント・パトリックスデーの祝日記事を書いているときに、ふと気になって調べてみたイギリスとアイルランドの関係。まとめだすとキリがないほど両国の関係は深かったです。というか、イギリスはさんざんなことをアイルランドにしていますね。。

アイルランドに住む友人から話を聞くと、特に南側のアイルランド共和国ではイギリスに対する嫌悪感情が未だ強くある、と言っていました。ぶっちゃけ多くのアイルランド人はイギリス人が嫌いだってことです。

聖パトリックスはイングランド出身(ウェールズといわれていますが)でありながら、アイルランドの文化継承と修道院文化を作り上げアイルランドに貢献した人物として現在も尊敬されています。

両国が真に対等な関係を築き上げることができる日がくることを願います。

アイルランドの盛大なお祭り、聖パトリックスデーについての記事はこちらです。

▶「セントパトリックス・デーを楽しむための8つの豆知識

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。Byアルノ

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