イギリスからこんにちは。イギリスに来るまでイギリスが4つの国との連合王国だとは知らなかったアルノです。
アイルランドといえば、、、強いラグビーチームに、バックストップ問題(ブレグジット最大の問題)、ケルト文化に北アイルランド、IRA、そしてタイタニック、、、。
日本でも「アイルランド」という国は、スポーツ界では「ラグビー」、文化面では「聖パトリックスデー」や「アイリッシュパブ(ギネス!)」など、度々ニュースで話題となり、注目されています。
この記事は、イギリスとアイルランドの密接で複雑な関係と、歴史、北アイルランド問題について紹介します。
「アイルランド」という国が世間で話題になったときに、より深く理解し興味を深めることができるはずです。
わたしが感じたアイルランド・ダブリン
私は、アイルランドのダブリンに2泊3日で滞在したことがあります。
アイルランド名物とアイルランドの観光に期待していたわたしでしたが、訪れてみてのわたしの正直な感想は、、 うわ~イギリスとそっくり!
食べるものも、建物も、街を行き交う人々も、雰囲気も。
まるでリトルイギリス!
アイルランド名物料理に期待すべく、現地の人に直撃でおすすめ名物料理を聞いて、行ってみることにしました。
【ダブリンで実際におすすめされた料理】
・アイリッシュ・シチュー
・アイリッシュ・ブレックファスト
【わたしの感想】 普通のシチュー、イギリスのイングリッシュ・ブレックファストとまったく同じ…
アイルランド滞在中に一番美味しかったのは、テイクアウトのジャケットポテト&ギネスビールでした。(特にジャケットポテトは、ポテトがホクホクでとても美味)
アイルランドといって思い出すのは、このジャケットポテトの美味しさとギネスビールの工場ギネスストアハウスと夜に訪れたパブでのアイリッシュダンスの楽しい一時。
近いとはいえ別の国なのに、なぜこんなにイギリスに似てるんだろう?
イギリスとアイルランドの歴史を深く知らなかった当時、漠然とそんな疑問が印象にのこった旅でした。
答えは、アイルランド史にありました。
アイルランドの一部(北アイルランド)はイギリス連合王国である
イギリスは、正式名称を「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」といい、以下の4つの国で構成されます。
ちなみに「UK」とはこの連合王国を指しています。
- イングランド(日本人がイギリスと感じている地域)
- ウェールズ
- スコットランド
- 北アイルランド
アイルランド島は、北海道とだいたい同じくらいの広さだといわれ、島の北端がNorthern Ireland(北アイルランド)となり、UKに統合されているのです。
アイルランド(Ireland) | 北アイルランド(Northern Ireland) →UKの連合国 | |
---|---|---|
国家 | 立憲共和制国家 | イギリス領 |
位置 | アイルランド島の南部 | アイルランド島の北部 |
首都 | ダブリン(Dublin) | ベルファスト(Belfast) |
通貨 | ユーロ(€) | ポンド(£) |
このアイルランド島を南北にわけた理由を知るためにアイルランド史を確認していきます。 長い歴史ですが、イギリスとの関係を知るうえで重要です。
アイルランドの歴史
【先史】
アイルランドの先史を感じられるおすすめの場所がこちら↓
■ジャイアンツ・コーズウェイ (Giant’s Causeway)
北アイルランドに残る約5000万年前の火山活動により噴出した溶岩の冷却過程で六角形の玄武岩の柱で、その数4万本ともいわれています。
ジャイアンツ・コーズウェイについては別の記事「イギリスとヨーロッパの火山」でも紹介しています
■ニューグレンジ (Newgrange) ボイン渓谷遺跡群
紀元前3200年に作られたといわれる巨石遺跡。
直径は約100m、20万トンの石を使って作られたといわれ、積み上げられた石の屋根は、5000年以上を過ぎた今も雨もれすることがないといいます。
【ケルト時代】
ケルト人は、古代のヨーロッパに広く散在していた先住民族で、共通した文化を持ちながらも移動を長期間続け、ひとつの国に落ち着くことはありませんでした。
また、文字を持たない文化のため、いまだ謎が多く現在も解明が続けられています。
紀元前100年ごろからローマ帝国、ついでゲルマン民族に居地を追われ、西へと移動。
紀元前300年ごろから徐々に現在のスコットランド、ウェールズ、コーンウェル、ブルターニュ、マン島、に渡り、紀元前600年頃にアイルランドの島に渡っています。
特にアイルランドは、12世紀終わりまで国外からの強い影響を受けることがなかったため、ケルト文化がよく保存された場所だと言われます。
この時代、ケルト人が信仰していたのはドルイド教(Druid)です
ドルイド教は、太陽と大地の古い神々を信じ、あらゆる生き物の中に霊的な存在を見いだしていました。この思想は、日本人の自然一体化思想と似ています。
ケルトでは政治的な統一はありませんでしたが、このドルイド教が文化的な統一、統一言語と民族意識をはぐくむ重要な役目を担っていました。
【キリスト教の伝来】
432年、当時ドルイド教を信仰していたアイルランドにイングランド人の聖パトリックがキリスト教布教のために渡来します。(スレーンの丘に到着したといわれる)
彼はキリスト教を広く伝道しますが、ケルト民族古来の信仰や文化を否定せず、逆にそれらと融合する形でキリスト教を広めていきました。
こうしてアイルランドには独特のキリスト教文化が生まれ、修道院が中心となって繁栄します。
また、キリスト教の修道士によって文字を持たなかったケルトの古い伝承や詩を文字に残す作業が行われました。
これにより今日「ケルト神話」の伝承が現代に残ったのです。
現在でもアイルランド各地に点在する修道院跡には、小さな石の教会や礼拝堂、アイルランド独自のケルト十字と呼ばれるラテン十字と太陽のシンボルであるリングを組み合わせた十字架が残されています。
このキリスト教修道院による繁栄は8世紀末のバイキングの侵入まで続きました。
【バイキングの侵入】
9世紀ごろ、北欧のバイキングがアイルランド侵攻を始めます。
バイキングは島の修道院を襲い、文献や装飾品を略奪、この時期の戦闘で数多くの文化遺産が破壊され、修道院文化の衰退をもたらしたと言われます。
また、政治的統一がなかったアイルランドは、この侵略者に対して防衛を指揮する王がいなかったのです。
11世紀になってから、ブライアン・ボルー(Brian Boru)がアイルランド全土を統一し、全アイルランドの最初の王となり、バイキングの勢力を弱めます。
他のヨーロッパ諸国では1096年から十字軍遠征が始まっています。
【アングロ・ノルマンの侵入】
ボルーの死後、国を統一すべき主導者が現れず、国内の勢力争いで混乱が続きます。
1166年、レンスター王ダーマット・マクマローがイギリス王ヘンリー2世(アンジュー朝)に内戦の援助を求めました。
これをきっかけに、1171年にはヘンリー2世自らがアイルランドへ赴き、アングロ・ノルマン貴族とアイルランドの諸王達に忠誠を誓わせ、これを征服します。
イギリスはアイルランドへの植民を進め、教皇との交渉でアイルランド卿の称号を手に入れました。
以後、イングランドのアングロ・ノルマン人がアイルランドに政治的介入をして始めます。
アングロ・ノルマン人貴族と、イギリス国王は領土を拡大し、1250年までに全島の4分の3を支配しました。
彼らは要塞を築き、都市を建設。
現在のアイルランドの都市の礎は、この時代に築かれたといわれています。
13世紀になるとイギリスを規範にした社会制度が導入され、中央集権化が進みました。
しかし一部のアイルランド人領主はアングロ・ノルマン人植民者に抵抗し続け、次第にアングロ・ノルマン人の植民地拡大は勢力を失っていきます。
アングロ・ノルマンは地元民との融合が進み、次第にアイルランドの勢力に飲み込まれていきました。
アングロ・サクソンとアングロ・ノルマンで混乱したら、こちらを↓
【アングロ・サクソンとは?】
アングロ・サクソンとは、5世紀頃ローマ帝国が去ったブリテン島に、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたゲルマン系アングル人、ジュート人、サクソン人の3つの部族の総称。
この中のアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築きました。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐したといわれます。
ちなみにアーサー王伝説は、アングロ・サクソン人の侵入と戦ったブリトン人の英雄の物語。
【アングロ・ノルマンとは?】
11世紀に、フランス西北ノルマンジーからノルマンジー公ウィリアムが侵攻し、イギリス王位につきウィリアム1世(征服王)が誕生します。ノルマン朝(フランス封建貴族による支配)は現在のイギリス王室の開祖となり、アイルランドへも支配を及ぼします。
このノルマン朝時代のアングロ・サクソンを歴史的に「アングロ・ノルマン」といいます。
【イングランドによる支配】
15世紀ごろの中世ヨーロッパはルネッサンス(文芸復興)、大航海時代へと移ります。
イギリスは アイルランドをヨーロッパにおける戦略的な重要地と位置づけし、チューダー朝の時代に再びアイルランドを支配します。
1494年、ヘンリー7世がアイルランドにおけるアイルランド人総督を罷免させ、新たな総督をイギリスから派遣します。
この時期からアイルランドに対する政策はケルトの文化を否定し、全島をイギリス化していく方針に変わっていきました。
1536年、ヘンリー8世(チューダー朝)がアイルランド国王の称号を得ます。
このヘンリー8世はカトリック教会と絶縁しイギリス国教会を設立した人物!(エリザベス一世のお父さんですね)
これにより、ローマカトリックとイギリス国教会との間で激しい対立が生まれます。
イギリスは、イギリス国教会への宗教改革をアイルランドにも強要。
しかし、アイルランド人やアングロ・ノルマン人の領主はこの宗教改革に抵抗し、カトリック信仰がより強固に残ったことで状況が複雑化していきます。
ここでアイルランドの英雄、ヒュー・オニール登場!
エリザベス1世の治世になると、アイルランドにヒュー・オニールが現れ、スペイン(カトリック国)を味方にイギリスによるアイルランド征服に対抗、アイルランド九年戦争が始まります。
オニールが率いるアイルランド人領主連合は1605年に鎮圧され、エリザベス1世の次の王、ジェームズ1世アイルランド全土を統治した最初のイギリス人国王となりました。
ジェームズ1世は一時は反乱の拠点であったアルスター地方に英国国教会、スコットランドの長老派教会などのプロテスタントを多く移入させます。
これにより北部アルスター地方はプロテスタントの支配する地域となりました。(現在の北アイルランドへ)
現在の北アイルランド問題の起源はここにあります
アルスター地方のカトリックのアイルランド人は追放され、移住してきたプロテスタントの地主集団は次第に規模を拡大していきました。
この計画的な植民によって北部アイルランドには宗教のみならず、生活様式も他の地方とは異なる社会が形成されます。
1641年には、アイルランドのカトリック信者の不満の蓄積によりアイルランド同盟戦争が勃発。
この反乱で数千といわれるイングランド系のプロテスタントが虐殺されました。
イギリスではピューリタン革命によりクロムウェルが実権を握っていましたが、この事態を受け、1649年からクロムウェルがアイルランドを征服。
さらに、17世紀末のボイン川の戦いでプロテスタントの優位が決定的になると、カトリックに対する刑罰法により、カトリック弾圧が始まります。
そして 1801 年には、アイルランドは正式にイギリス連合王国に併合されます。
イギリスでは18世紀から19世紀にかけ産業革命が起こり、工業の発展と近代化の波が押し寄せます。
【アイルランド独立】
1829年、カトリックの法廷弁護士ダニエル・オコンネルが、カトリック教徒解放法を成立させました。
オコンネルはアイルランドの英雄と称される歴史的人物です。
1845年から1849年にかけて非常に深刻な大飢饉がアイルランドを襲います。(ポテト飢饉)
ポテトが主食だったアイルランドでポテト疫病とポテト不作が続き、人々は飢えと病気に苦しみます。
この飢饉が起きる前のアイルランドは800万人ほどの人口であったのに対し、飢饉で約100万人以上が餓死、約200万人は移住を余儀なくされ、多くがアメリカやカナダ、イギリス本島へ移民しました。
その後も人口は減り、1911年までに400万人までに半減。
現在、アイルランド本国の人口よりアメリカ合衆国のアイルランド移民の数のほうが多いことや、一国の人口が半分に減る事態を考えると、、どれだけすさまじい飢饉だったか想像すらできません。
■映画「タイタニック」は、タイタニック号は北アイルランドのベルファストで製造され、このポテト飢饉でアメリカへ移住する人々の様子も描かれています。
この深刻な飢饉被害に対するイギリス政府の対応の不手際が反英感情を高め、飢饉後は土地の奪還と自治・独立を求める政治活動や武力闘争が再び盛んになります。
さらに19世紀末からは、劇作家であるウィリアム・バトラー・イェーツ(ノーベル賞作家)らが中心となって「アイルランド文芸復興」が始まり、ケルト神話やアイルランド語など、アイルランド独自の文化が、アイデンティティの象徴となりました。
1916 年のイースターアイルランド義勇軍とアイルランド市民軍による武装蜂起が起こり(イースター蜂起)、パトリック・ピアースが共和国の独立を宣言しました。
しかし英国政府軍によって鎮圧。その後首謀者達は処刑されてしまいます。彼らの英雄的行為はアイルランドの人々の独立の気運を高め、 1919 年には独立戦争が始まります。(戦争は2年半続きます)
1921年、英愛条約の制定、1922年に南部アイルランドにアイルランド自由国が成立。
英愛条約により北部アルスター地方のうち6州はイギリス連合王国にとどまり、南北は分離します。
※現在も続く北アイルランド問題は、この英愛条約に始まっています。
この南北の分離によって、1922年から1923 年には内戦、1937年に新しいアイルランド憲法を制定、1949年にはアイルランド共和国となり、正式に独立を果たしました。
アイルランド独立戦争とその後の荒廃した人々の生活を描いた映画『麦の穂をゆらす風』は見ごたえがあります。社会問題を描く天才、ケン・ローチ監督の作品。見たら辛くなるけど。
北アイルランド問題とは?
1960年代から活発となった北アイルランドのカトリック系住民の分離独立運動。
19世紀後半より、それまでイギリスに統合されていたアイルランドで独立を求める運動が激しくなります。
背景にあるのは、アイルランド島におけるカトリック(南)とプロテスタント(北アイルランド)の対立です。
南部(アイルランド)
- カトリック
- イギリスからの独立は
北部(北アイルランド)
- プロテスタント
- イギリスとの連合維持派
英愛条約により北部アルスター地方のうち6州はイギリス連合王国にとどまり、南北は分離します。
北アイルランドのカトリック教徒は少数派で、政治上、仕事、住居などあらゆる面で差別を受け、両者は対立していました。
1960年末から対立が深刻化し、1969年にカトリック系住民の「アイルランド共和国軍(IRA)」が武装闘争を展開し始めます。
1916年のイースター(復活祭)に、独立派によって「アイルランド共和国樹立」が宣言され、武装蜂起(イースター蜂起)します。
この「反乱」はまもなく鎮圧されましたが、その火種は1919年のアイルランド独立戦争を招きます。
彼らの主張は北アイルランドのアイルランド共和国への併合であり、イギリスの直接統治に対しては徹底した抵抗を行うとし、70~80年代に激しいテロ活動を展開しました。
1921年、独立派とイギリスは英愛条約を結び、南部26州(南アイルランド)はイギリス国王を元首とする自治領アイルランド自由国として分離しました。
アイルランド自由国の分離にともない、1927年、イギリスは国号を「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」と改めました。
北アイルランド(アルスター地方6州)では、英国からの分離とアイルランドへの併合を求めるカトリック系住民と、英国の統治を望むプロテスタント系住民が激しく対立します。
もともと北アイルランドのカトリック教徒は少数派で、政治の上でも仕事、住居においてもあらゆる面で差別を受け、両者は対立していました。
1937年にアイルランド憲法が公布され、アイルランドは完全に独立。
ここで、イギリス連合王国に留まった北アイルランド内で紛争が起こります。
この問題は深刻化し、1969年にカトリック系住民による「アイルランド共和国軍(IRA)」が武装闘争をはじめます。
彼らの主張は北アイルランドのアイルランド共和国への併合であり、イギリスの直接統治に対して徹底した抵抗を行うとし、テロ活動は80年代まで続き、犠牲者は3200人を超えたと言われます。
紛争は1972年の血の日曜日事件と血の金曜日事件で頂点を迎えます。
血の日曜日事件(Bloody Sunday)