「イギリス」は、正式名称を「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」といい、イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの4つの国から構成されています。
歴史的に戦争を繰り返し、王家の血もからめながら複雑に関係してきたこの4つの国。
特にスコットランドは、ケルト系文化を継承し、イングランドとたびたび戦いをくりひろげてきた国です。
わたしの英国生活の中でイギリス人のスコットランドに対する悪口のようなものは聞いたことがありませんが、なにかモンモンとしたものを感じる。
スコットランド人からはイギリス人に対してなにか確執のようなものを感じたことがありました。(すべての人からではありません)
それは、いったいなぜなのか?
今回は、スコットランドの歴史をわかりやすく紹介しながら 「ピューリタン革命」や歴史の闇、「ハイランドクリアランス」がなぜおこったのか紹介します。
スコットランドは地理的にふたつにわかれている
スコットランドの歴史をまとめる前に、けっこう大きなポイントがこれ!
スコットランドは地理的に、南の「ローランド地方」、北の「ハイランド地方」に大きく2つにわかれていて、親英度も異なります。
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1.ローランド地方(Lowland)
ローランド地方とは、スコットランド中部の低地帯を総称した地域。
グラスゴー、エディンバラ、アバディーンなど、工業が栄え都会と呼ばれる地域がこちら。
日本人もこの地域に多く住んでいます(特にエジンバラ)
ハイランドと比べると、イギリス文化の影響を受け親英度は高い地域です。
2.ハイランド地方(Highland)
ハイランド地方とは、スコットランド北部~西部の荒れた山がちな高地域。
ネッシーで有名なネス湖はこの地方にあります。
ハイランドは、19世紀以後スコットランドでのジャコバイトの反乱に続くハイランドの伝統的な文化の廃止などの要因が複合した、悪名高き「ハイランド・クリアランス」 と、産業革命期の都市部への大量移動がありました。
よって現在ではヨーロッパで最も人口密度の低い地域の一つとなっています。
また、言語にスコットランド・ゲール語、ハイランド英語も用いられているのも特徴。
ハイランド地方は、イングランドよりアイルランドと文化的共通項があるといわれています(ゲール語やケルト音楽など)
親英度は低いといわれる地域です。
ここから、スコットランドの歴史を古代から紹介します。
古代~中世
古代スコットランドは、「カレドニア(Caledonia)」と呼ばれ、ケルト系のピクト族(Picts)が住んでいました。
ケルト人とは、古代ヨーロッパに広く散在していた先住民族で、共通した文化を持ちながらも長期間移動を続け、ひとつの国に落ち着くことはなかった民族です。
紀元前43年よりローマ帝国が侵入。
ハドリアヌスの長城、アントニヌスの城壁など要塞が築かれましたが、カレドニアは土地を守り、決してローマ帝国の一員にはなりませんでした。
ローマ軍が撤退すると、次にブリトン人など他の民族が侵攻。
6世紀に入ると、隣のアイルランド島からアイリッシュのケルト系ゲール族(スコッツと呼ばれる人々)がカレドニアに侵入します。
このアイルランドから渡ってきたゲール族のスコッツが現在のスコットランド人の直接祖先といわれるケルト系スコットランド人です。
スコットランドは民族によって統治がわかれました。
- 北西部:スコット人(ダル・リアダ王国)
- 北東部:ピクト人(アルバ王国)
- 南部:ブリトン人(ストラスクライド王国)とアングル人(ノーサンブリア王国)
中でもアイルランドからやってきたスコット人がつくったダル・リアダ王国が勢力を強めます。
843年に、ダル・リアダ王国のケネス1世がアルバ王国を征服し、スコットランド王国を建国しました。
【ケネス1世↓】
By William Hole (1846-1917) – original source unknown, パブリック・ドメイン, Link
8世紀には北から度々バイキングに侵略されます。
11世紀後半、父王(ダンカン1世)をマクベスに暗殺され王位を奪われた王子が、マクベス王を倒して王位を奪還し、マルカム3世が誕生。
マルカム3世はアングロサクソン文化を好み、スコットランドにアングロサクソンの文化が広まりました。
ダンカン1世とマルカム3世はシェイクスピア作「マクベス」の登場人物。シェイクスピアの『マクベス』はこの歴史を題材にしています。
こうして…
南部(ローランド地方):封建制を導入したことでイングランド化
北部(ハイランド地方):古い制度が残る
こととなりました。
そのころ、イングランドではフランス人であるノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドに侵入し、イングランド王ウィリアム1世を名乗ります。(ウィリアム征服王/ノルマン・コンクエスト)
マルカム3世は、ウィリアム1世統治下のイングランドへたびたび侵攻します。
しかし、1071年にはウィリアム1世に攻め込まれ、1072年にイングランドへの臣従を誓うアバネシーの和約を結び、その後の戦いにおいて亡くなります。
その後、スコットランドとイングランド王家にはしばしば和議が図られますが、イングランドとスコットランドとの争いは続くことになりました。
英雄ウィリアム・ウォレスの登場
イギリスでは、1272年に誕生したイングランド王、エドワード1世(プランタジネット朝)が、近隣諸国との戦争に明け暮れ、1296年スコットランド侵略をはじめ、ウェールズやフランス(百年戦争へとつながる)に侵攻しました。
繰り返されるイングランドによるスコットランド侵略は、スコットランド人の激しい抵抗運動をうむことになります。
スクーンの石(Stone of Destiny)
1296年、エドワード1世は、戦利品としてスコットランド王の象徴であるスクーンの石などをロンドンへ持ち帰りました。
この石は、代々のスコットランド王が、この石の上で戴冠式を挙げたとされる。運命の石(Stone of Destiny)と呼ばれるスコットランド人にとっては特別な石。
スクーンの石がイングランドに奪われたことは、スコットランド人の英国への敵対意識を高め、1950年にスコットランド民族主義者による盗難事件が発生。
1996年、この石はトニー・ブレア政権により700年ぶりにスコットランドに返還される。(現在は、エジンバラ城に保管されています)
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ここに、スコットランドでは『英雄』と言われる、ウィリアム・ウォレス(1270-1305)が登場します。
ウィリアム・ウォレスは、スコットランドの人々の愛国心に火をつけ、平和と自由の勝利のために立ち上がったのです。
1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめますが、その後の戦いで敗北。
また仲間の裏切りからエドワード1世に囚われ、最期は処刑されてしまいます。
ウィリアム・ウォレスの人生はメル・ギブソン主演で映画になっています。
1999年の古い映画ですが、未だに根強い人気作。高画質のBlu-ray「ブレイブハート」アマゾンDVDコレクションで非常にお得です。↓
反乱を受け継いだのが、ロバート・ザ・ブルース。(スコットランド王ロバート1世)
エドワード1世がなくなると反乱を起こし、1314年エドワード2世率いるイングランド軍に勝利(バノックバーンの戦い)。
スコットランドは独立を勝ち取りました。
しかし、この後も300年にわたりイングランドとスコットランドの対立は続きます。
14世紀、同じくイングランドと争っていたウェールズは征服されます。
スチュアート朝(英国とスコットランド王の統一)
1371年、スコットランドではロバート2世が誕生し、スチュアート家が誕生。
スコットランドは、イングランドと友好関係と戦争を繰り返しますが、ジェームズ4世、ジェームズ5世の時代で敗北します。
ジェームズ5世を継いだ人物が、娘のメアリー・スチュアート。
メアリーは、スコットランド国王、フランス国王フランソワ2世の王妃、さらにイングランド王位の継承権をももっていました。
メアリーは、イングランド国王エリザベス一世の暗殺計画などの陰謀に関わったとされ、1587年にエリザベス一世に処刑されます。
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メアリーの後、スコットランド国王となったのは、息子ジェームズ6世。
イギリスではエリザベス1世亡き後、イングランドの王位継承権をもっていたスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世(1603年)を兼ねる形で、スチュアート朝が誕生します!
スコットランドとイングランドは一人の王によって統治されることになりますが、国としては統合されず、別々の国として成り立っていました。
【↓ジェームズ1世(イングランド王)/ジェームズ6世(スコットランド王】
By Attributed to ジョン・ド・クリッツ – Pradoimage, パブリック・ドメイン, Link
王が統一されたことで、ジェームス1世の政治拠点がロンドンへ移り、スコットランドの立場が弱まることになります。
ジェームズ1世と息子のチャールズ1世は、
ピューリタン革命とクロムウェル
対立する王と議会。
イングランド議会は、プロテスタントのピューリタン(清教徒)を支持。
国王チャールズ1世はピューリタンを弾圧します。
1637年、ピューリタンを支持するスコットランドで反乱が起き
この革命によってチャールズ1世は処刑されます。
その後はプロテスタントのカルヴァン派、オリバー・
オリバー・クロムウェルは、現代でも、優れた指導者か強大な独裁者か?歴史的評価は分かれています。
【ウェストミンスター宮殿前のクロムウェル像↓】
クロムウェル亡き後は共和制は終了し、
しかし、チャールス2世の復活で絶対王政とカトリックも復活することとなり、
名誉革命・無血クーデター
チャールズ2世の息子、ジェームズ2世(
この名誉革命により次のことが制定されます。
- イングランド国教会の国教化が確定
- 『権利の章典』により国王の権限は制限される
これは、イギリスにおける議会政治の基礎が築かれることにつながりました。
メアリーはメアリー2世、夫の
ウィリアム3世と妻のメアリー2世による、イングランド・スコットランド・アイルランドの3王国の共同統治は、イギリス史上で唯一「共同統治」が君主に認められ時代です。
英国王と配偶者
イギリスの歴史においては、君主の配偶者に君主権はなく、単に配偶者でしかありません。
(例)エリザベス2世の配偶者は王ではなくエディンバラ公フィリップ王配と呼ばれます。
しかし、この内戦により国力は弱まり、スコットランド経済は力を失い国民は飢饉に苦しみました。
イングランドと合同し「UK」となる
ここに、
その後300年、スコットランドはウェエトミンスターのイギリス議会から直接統治されることになります。
ステュアート朝が終わり、次の王となったのが、
しかし、英語を話せず、イングランドド不在の王によって
ジャコバイト(Jacobite)
スコットランドでは、ジャコバイトと呼ばれる『名誉革命で国外亡命したカトリック系子孫であるジェームズ2世の直系が正当な王だ』と主張する人々が現れます。
ジャコバイトの最大の支持基盤が、スコットランドのハイランド地方でした。
もともとスコットランドにはイングランドに対し、根深い対立意識があったのです。
目指したのはスチュワート朝の復興です。
そして1746年にスコットランドでジャコバイト軍とイングランド軍の戦いが勃発(カロデンの戦い)。
この戦いによりジャコバイトは完敗、
この戦いによるジャコバイトの敗北は、カトリックの復権をも不可能にしました。
イギリス政府は反乱を重くみて、スコットランドにあらゆる規制を制定します。
- 氏族制度を解体
- 伝統衣装であるキルトとタータンの着用の禁止
- 政府軍をハイランドに常駐
- 伝統楽器であるバグパイプも禁止
- 武器の携帯も禁止
これらの政策は、スコットランド人にとって屈辱的な仕打ちであり、現代に続くイギリスへの強いマイナス感情の発端となりました。
悪名たかき「ハイランド・クリアランス」
18世紀から19世紀にかけ、ハイランド地方を中心とした地主たちは羊毛産業が経済を豊かにすると考え、羊の放牧のために今まで住んでいた住民を強制退去させます。
これが悪名高き「ハイランド・クリアランス」。
この時に最大で10万人以上がホームレスとなったといわれ、土地をうばわれた人々は海岸部へ移り漁業をはじめたり、仕事を求めて都会へ移動。
またカナダ、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドへ数千人の人々が移住したといわれています。
この「ハイランド・クリアランス」により、結果的に北部(ハイランド)は衰退し、逆に南部(ローランド)では経済的に豊かになり、両地の格差が大きくなりました。
産業革命で豊かになるも。。
イギリスでは18世紀から19世紀にかけ産業革命が起こり、工業の発展と近代化の波が押し寄せます。
18世紀のスコットランドでも、
大規模な鉄道建設は物資が長距離を移動できることを意味し、製造業の大きな進歩をもたらしました。
人々は仕事を見つけるため、ローランドの都市へ移動し、ハイランドでは急速な人手不足となります。
都市部での移住者たちの生活は非常に貧しく、大家族であっても一部屋ぐらし、生まれたこどもの半数は5歳前に死んでいったと言われます。
経済的な発展の一方、スコットランドの議会はいぜんロンドンのウェストミンスターにあり、これにスコットランドでは不満の声が高まっていきます。
スコットランド議会の復活
スコットランド海域で発見された北海油田の発掘。
これはスコットランドとイングランドの関係を変化させました。
油田から得られる利益はイングランドに有利になっていたため、スコットランドは、イングランドからの独立を強く望むようになります。
1997年9月、イギリス議会は国民投票により
1999年7月にエリザベス女王によって正式にスコットランド議会が設置され、
2003年にはエジンバラに議事堂が建てられます。
2014年、
今後は、ブリクジットのゆくえをにらみ、スコットランドのみならず、北アイルランド、ウェールズの動向にも注目です!
まとめ
以上、『【スコットランドの歴史】ハイランドクリアランスやピューリタン革命はなぜおこったか?』の記事を紹介しました。
スコットランドの歴史をまとめてみると、ピクト族やアイリッシュスコッツからのケルト文化を継承しつつ、隣国イギリス(イングランド)の影響を色濃くうけていることがわかりました。
特に両国の対立の歴史は長く、1071年の英国ウィリアム征服王とスコットランド王マルカム3世の時代から長い戦いの歴史が繰り広げられています。
わたしのスコットランド人の友人は、「イギリスは好きだし、ここで暮らすのはステキだ」と言いつつ、サッカーの試合では決してイングランドチームを応援しません。
イギリス人の友人は、「スコットランド人が好きだ」と言いつつも、「ハギスはまずい」だの「スコティッシュイングリッシュの口まね」などのおふざけの様子から なにか見下しているかのような印象を受けたこともあります。
それは、イギリスによる長い侵略と支配の歴史がそうさせているのかもしれません。
しかし、英国王室がスチュアート朝で統一したことに象徴されるように、両国の血のつながりも深く、たとえばイギリス人でスコットランド、ウェールズ、アイルランドの祖先をもたない人はいない、と言われています。
同じ島にありながら文化の異なる国、スコットランドとイギリス。
同じスコットランドでありながら、文化や地形、豊かさがまったく異なるハイランド地方とローランド地方。
スコットランドの歴史を知ることで、わたしなりに理解が深まりました。
エジンバラやグラスゴーは行ったことがありますが、ハイランド地方はまだ行ったことがないんです。この記事を書いてみてハイランド地方への興味が高くなりました!
まずはネス湖あたりかな?
同じくUKの構成国であるアイルランドとウェールズのわかりやすい歴史とイギリスの関係についての記事はこちら。↓
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。Byアルノ