・南アフリカとイギリスの関係が知りたい!
南アフリカとはどんな国なのか?その歴史や文化、政治、スポーツなどあらゆる面で「イギリス」と深く関わっています。
この記事では、イギリスと深くかかわる南アフリカの歴史を中心に、ニュースで話題になる問題などを紹介します。
「南アフリカ」について、理解が深まるのでぜひ最後までごらんください。
南アフリカの位置と観光のみどころは?
南アフリカは、アフリカ大陸の最南端に位置する国です。
面積は日本の約3倍、首都はプレトリアですが、最大都市はヨハネスブルグ、喜望峰で有名なケープタウンもこの国の都市の一つです。
観光で有名な場所は?
- テーブルマウンテン国立公園(1086メートルの高さを誇り絶景が楽しめる)
- 希望峰(ケープポイント│南大西洋とインド洋がかさなる場所)
- クルーガー国立公園(世界最大規模のサファリパーク)
- カーステンボッシュ国立植物園(ケープタウン)
- ボルターズビーチ(アフリカペンギンが保護されています)
まだまだ観光の見どころはあります。
観光の魅力は、南アフリカの広大な自然景観や、特色のある動植物、海に面しているため海洋生物や海岸線も非常に美しく、一度訪問したことのある友人は、「もう一度行きたい」と口をそろえます。(わたしはまだ行ったことはありません)
観光の見どころは多いものの、「治安に細心の注意が必要な国」とも言われています。
南アフリカのこれだけは知っておこう
南アフリカの正式名称は、「南アフリカ共和国(Republic of South Africa)」といい、イギリス連邦加盟国のひとつです。
南アフリカの言語は非常に多様で、バンデュー諸語(コサ語など)、アフリカーンス語(オランダ語が起源)、英語(ヨハネスブルクやケープタウンの大都市中心)など11言語以上の言葉が使われています。
英語話者が少ない(全人口の9割ほど)にも関わらず、英語は事実上の共通語といわれます。
同様に民族も多様で、ズールー人、コサ人、ツワナ人、ソト人など多くの民族にわかれた黒人が8割を占め、白人は1割ほど、その他混血やインド、中国系となっています。
黒人同士の民族間対立、白人と黒人の対立、インドやアジア系との対立、不法移民(ジンバブエなど近隣諸国からやってくる)による治安の悪化も問題視されています。
南アフリカ、ニュースで話題になる問題
1)治安の悪さ
統計による殺人率とレイプ率の高さに驚きます。
外国人にたいする暴動もあり、富裕層たちは自分たちの身を守るためにガードマンを雇っています。
2)HIV感染者の多さ
世界で一番HIV感染者が多い国といわれています。
3)土地問題と貧困
植民地時代からつづく深刻な土地問題は、歴史的に黒人が土地をもつことを厳しく制限してきた歴史が関係しています。
1990年代の「アパルトヘイト撤廃」後は、黒人にも土地の所有が許されますが、現代でも広大な土地のほとんどは人工10割に満たない少数派の白人が所有していて、土地改革の必要性が叫ばれています。
南アフリカの歴史とイギリス、そしてアパルトヘイト
1488年から、ポルトガル人(バスコ・ダ・ガマなど)が最初のヨーロッパ人としてアフリカの地に到達。
同時に、奴隷制度の歴史もはじまりました。
ヨーロッパで海上貿易が盛んになる1652年、オランダ・東インド会社がケープタウンへ入植。ヨーロッパからの移民も進みます。
ヨーロッパでナポレオンの時代になると、南アフリカはオランダの支配からイギリスの支配へ移り変わります。1795年にイギリスがケープを占領。1820年からイギリスからの移民がぞくぞくと入植し始めます。
おりしもイギリスは産業革命、大英帝国を築く黄金の時代に突入。
南アフリカは、黒人王国、数種類の白人政府に分裂します。混血もすすみ多くの人種問題がおこっていました。
この後、2度のボーア戦争(英国VSオランダ系アフリカ人の戦争)、ズールー戦争(イギリスと南部アフリカの戦争)など激しい植民地戦争がくりひろげられ、さらにダイアモンド鉱山の発見や、金脈の発見により利権をかけた戦いが激しくなります。
1910年南アフリカ連邦が成立、1931年にはイギリス連邦内における独立国とみなされることになりました。(ウェストミンスター憲章)
しかし、黒人と白人の社会的格差問題が大きくなっていきます。
1950年、白人と黒人を分断し差別化を図る、悪名高い『アパルトヘイト(人種隔離)』がはじまります。
このアパルトヘイト(1948~1994年)、かなりエグい黒人差別が法律に乗っとり実施されていました。たとえば。。
- 白人に肥沃な土地を与える(そもそも住む地域もわける)
- 人種間の婚姻の禁止
- 黒人の労働条件を劣悪なものにし、白人の労働条件は優遇する
- 黒人の身分携帯の義務化
- 選挙権の制限(黒人を外国人あつかい)
- 白人と黒人の共学の禁止…
国際的にも強く避難され、アパルトヘイト時代にはオリンピックもワールドカップからも除名されています。
当時『反アパルトヘイト運動』をしていたネルソン・マンデラは、逮捕されています。
1989年、長く続いたアパルトヘイトでしたが、アパルトヘイト撤廃の動きをみせた大統領デクラークが就任すると、ネルソン・マンデラを釈放。ともにアパルトヘイト撤廃へ向け活動します。
ネルソンは、なんと27年間にも渡り投獄されていました!
1994年、ネルソン・マンデラが大統領に就任すると、すべての差別を禁じる新憲法が制定されました。
このときのスローガンが、『レインボーネーション(虹の国)』。
これは、白人も黒人も関係なく、南アフリカのすべての人種が調和して共存することを目指して名付けられました。
レインボーネーションの精神は、南アフリカの国旗にあらわされているのです。
しかし、現在でも南アフリカにおける白人と黒人の人種間の争いや差別はなくなっていません。問題はより複雑化しているように見えます。
南アフリカのラグビー
イギリスの植民地であった歴史的背景から、イギリスの人気スポーツだった「ラグビー」も南アフリカで成長しました。
南アフリカのラグビーチームの概要をざっと見てみましょう。
- シンボル: スプリングボック(鹿のような動物│見出しの画像参考)と プロテア(植物)
- 南アフリカチームの愛称: スプリングボクス
- ユニフォーム: グリーンとイエローのシャツに、白いパンツ
- 最初のワールドカップ出場: 1995年(南アフリカで第3回ワールドカップが開催され注目をあびた)
ちなみに、ラグビーワールドカップは比較的新しく創設された国際ラグビーマッチです。(1987年からはじまった)
南アフリカは、アパルトヘイト政策を国際的に避難された影響で、最初の2回のワールドカップの出場を許されていませんでした。
当時の南アフリカのリーダー、たネルソン・マンデラ大統領がスプリングボックのシャツ姿で、白人キャプテンのフランソワ・ピエナールにトロフィーを贈った姿が印象的でした。
このワールドカップは、世界中から「南アフリカの白人と黒人の和解への大きな一歩」と報じられました。
映画(『インヴィクタス│負けざるものたち』)にもなっているので興味があるかたは、ぜひ鑑賞してみてくださいね!
南アフリカのスプリングボックチームは、2007年にも優勝を果たし、2019年の「ラグビー世界ランキング第2位」(日本は第8位)と驚異的な強さを維持しつづけています。
>(参考)南アフリカ・ラグビーチーム公式サイト
まとめ
以上、『南アフリカという国を知ろう!イギリスとの歴史、そしてラグビー』の記事を紹介しました。
南アフリカは1400年代からのヨーロッパからの入植後、奴隷制度や土地、労働の搾取など大きな試練や内戦、人種間争いを繰り広げてきました。
この白人と黒人その他の人種の争いは、いまだ解決の目処はたっていません。
そんな混乱する国を背景にもちながら、黒人選手、白人選手が一体となりプレーをする姿、勝利を目指す姿に、胸があつくなるのは私だけではないはずです。
南アフリカの国旗「レンボーネーション(差別のない虹の国)」。
次のラグビー試合やサッカーの国際試合で、このフラッグをみたら、この精神を思い起こしてみませんか?
ラグビー強豪チーム「ウェールズ」についてはこちらの記事が参考になります。
ラグビー強豪チーム、「スコットランド」についてはこちらの記事が参考になります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。>>Byアルノ